フォーラムへの集中連載③プログラム1『トークセッション「共に生きるということ」』

連載3回目は、9/5(土)13:30~16:30に開催する、プログラム1「トークセッション「共に生きるということ」」 のご紹介を。

★フォーラムへの集中連載
①「対話は可能か?」
②前夜祭『「幻聴妄想かるた」大会』
③プログラム1『トークセッション「共に生きるということ」』
④プログラム2『ライブ「Living Together × 東京迂回路研究」』
④プログラム3『ふわカフェ in 東京迂回路研究』

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写真は、昨年お伺いした「井戸端げんき」のようすです。

じつは今年度の「東京迂回路研究」は、こんなテーマを掲げています。

「迂回路をつなぐ」

これは、私たちの考える「迂回路」——すなわち、社会における人々の「多様性」と「境界」に関するさまざまな課題に立ち向かう際の「生き抜くための技法」ーーを、それぞれの立場で歩いていたり、つくっていたりする人々や活動が、なんらかの形で接点を持つ、ということを目指しています。
その要素がもっともあらわれているのが、このトークセッションです。さまざまな立場の人たちどうしが「共に生きる」ことについて、しなやかな場をつくっている実践者の方たちが次々と登場します。

昨年の調査先からは3名の方をお招きしています。
お年寄りたちとともに、「ケア」するのではなく「共にいる」ことで、そこに集まる人々や状況のすべてを「許す」、という姿勢が印象的だった、千葉県木更津市の「宅老所 井戸端げんき」の加藤正裕さん。
もと保育園長としての経験から、制度からは外れてしまうこどもたちなどを「おばちゃん」という別の看板を立てることで、誰でも来られる場をつくっている、東京都大島町の「伊豆大島元子おばちゃん家」の長嶋元子さん。
HIV/AIDSの予防啓発拠点として、新宿二丁目のゲイタウンの中心にスペースを構え、ポップなデザインの啓発グッズを多数生み出している、通称「新宿二丁目の公民館」、「community center akta」の荒木順子さん。

さらに、「迂回路」であったり、「共に生きる」というキーワードに接点が深い方をお招きしました。
名古屋造形大学の学生と一緒に、瀬戸内海のハンセン病療養所でアートプロジェクトを展開したり、最新プロジェクトとしては新潟水俣病が発生した阿賀野川を遡り歩く作品「旅するお地蔵さん阿賀をゆく」を進めている、やさしい美術プロジェクトの高橋伸行さん。
東京都港区で、多様な人たちが共にいられる地域拠点「芝の家」などの運営を通じて、「都心なのにローカル」「課題解決から価値創造へ」といったテーマで、地域活動にかかわる場づくりや人づくりを行っている、ご近所イノベーション学校の坂倉杏介さん。
東北でさまざまなアートプロジェクトを企画運営しており、東日本大震災後はおもに宮城県南三陸町で「きりこプロジェクト」などを通じて地域文化の継承と復興について取り組んでいる、ENVISIの吉川由美さん。

こんなに大人数のゲストに加え、私たちの研究所のメンバーも聞き手として登場します。
シンポジウムのように、自己紹介や活動紹介の時間はそう多くは取れません。だからこそ、このゲストの方たちには、活動のなかで大切にしているところ、根っこの部分を中心にお話いただけるようにお願いをしているところです。

具体的な活動のひとつひとつのおもしろさとは異なる、「共に生きるということ」についての、ある共通する知見、プログラム4の対談のタイトルにもあるような「まるっきり違うのにそれでも似るもの」を探り当てるようなことができると良いなと思っています。
SHIBAURA HOUSE 1Fの開放的な空間でゆったりと、わたしたちの「迂回路」をめぐる旅を追体験していただけるような場になればと思っています。

(長津結一郎)



[プログラム1]13:30~16:30(13:15開場) トークセッション「共に生きるということ」
さまざまな人の”生きること“に寄り添い、共にあろうとする、しなやかな場をつくっている実践者によるトークセッション。宅老所や託児所、アートプロジェクト、コミュニティセンターの運営などの実践から、「共に生きるということ」をテーマに、即興で語り合います。
1、加藤正裕(井戸端げんき)×長嶋元子(元子おばちゃん家)
2、荒木順子(akta)×高橋伸行(やさしい美術プロジェクト)
3、坂倉杏介(ご近所イノベーション学校)×吉川由美(ENVISI)
4、ディスカッション

会場:SHIBAURA HOUSE 1F リビング
定員:30名程度
参加費:1000円
*UDトークを使った音声認識字幕による情報支援あり



東京迂回路研究フォーラム「対話は可能か?」申し込み受付中です。
詳細はこちらのページから

フォーラムへの集中連載②前夜祭『「幻聴妄想かるた」大会』

連載第2回は、前夜祭のご紹介。「幻聴妄想かるた」大会です。

★フォーラムへの集中連載
①「対話は可能か?」
②前夜祭『「幻聴妄想かるた」大会』
③プログラム1『トークセッション「共に生きるということ」』
④プログラム2『ライブ「Living Together × 東京迂回路研究」』
④プログラム3『ふわカフェ in 東京迂回路研究』

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幻聴妄想かるたは、精神障害のある人の事業所に通う人々の体験をもとにつくられたものです。東京・世田谷にある就労継続支援B型事業所「ハーモニー」のメンバーが、自分たちの幻聴妄想の実態をかるたにしました。現在は、「幻聴妄想かるた」に加え、かるたの札を一新した「新・幻聴妄想かるた」も販売され、好評を博しています。
市販されているかるたには、かるたの取り札・読み札に加え、かるたがつくられた背景と、ひとつひとつのかるたの「解説文」が付録として付けられています。ひとつひとつのかるた自体が、誰かの人生の一コマ、あるひとときの幻聴や妄想に基づいているのだなということを実感できるものになっています。

今回、フォーラムで「幻聴妄想かるた」大会を実施するのに先立ち、「ハーモニー」に赴く機会がありました。そのときのことを研究所日誌で、インターンの石橋くんがこんなふうにまとめています

「施設長の新澤さんがおっしゃっていた、「幻聴、妄想、したことありますか?」という問いかけがとても印象に残っています。確かに、普段から妄想はよくするなぁ…とか、幻聴はあまり聞こえたことはないけれど、自分の心の中の「○○しろ!」「○○するな!」という言葉はよく聞こえてくるなぁ…とか。幻聴妄想かるたは、「障害」と「健常」の「境界」について、かるたという遊びを通してともに考え、感じる試みなのだなぁ[…]」

幻聴妄想かるたは、精神障害のある人の「幻聴」や「妄想」について、シュールな笑いを楽しむだけのものではありません。
自分にとって「幻聴」「妄想」とは何なのか。そのかるたに笑う自分とはいかなる存在なのか。そのような問いを、突き付けるものでもあるのです。

幻聴や、妄想。それを語ることは、精神障害のある人の治療という文脈では、どちらかというとタブーとされてきました。というのも、こうした幻聴や妄想は、実際には存在しない作りだされたものである、という「非現実性」を理解してもらうことで、病識(自分が病気である、という認識)を深めることを促すのが従来の治療とされていたためです。
しかし最近では、浦河べてるの家を発端とした「当事者研究」を通じて、医師が診断した医学的事実だけでなく、ひとりの人間として生きているということを広げるような取り組みが広がってきました。幻聴を「幻聴さん」と名付け、自らその不思議な体験を言葉にして語り合い、外に開くことで、病気を医療者ではなく自らの手に取り戻す試みを行っているとも言えます。

「コンビニに入るとみんな友達だった」
「にわとりになった弟と親父」
「のうの中に機械がうめこまれしっちゃかめっちゃかだ」

当日はかるた大会のほか、みんなでかるたを作成する時間も持つ予定です。「ハーモニー」のメンバー、スタッフのみなさんと豊かな時間を過ごしたいと思います。

(長津結一郎)


東京迂回路研究フォーラム「対話は可能か?」申し込み受付中です。
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フォーラムへの集中連載①「対話は可能か?」

東京迂回路研究フォーラム「対話は可能か?」、開催まで1ヶ月と少しになりました。今年度最大のイベントとして行われるこの企画について、連載という形で紹介していきたいと思います。
第1回の今回は、このフォーラム自体のことについて。

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「東京迂回路研究」というプロジェクトを立ち上げて2年目になります。活動を通じて出会った多くの方々との出会いを通じて、このプロジェクトが目指すところが少しずつ見えてきたように感じています。そのうえで、このフォーラムには、「対話は可能か?」というタイトルを付けました。

この「対話」という言葉、実は、すべての人たちに大いに関係のある話だと思っています。

よく、社会の中で少数の立場にある人たちについて、「わたしたちが○○とこれから共に生きていくにはどうしたら良いのか?」ということを投げかける人がいます。しかし実は、少数の立場と多数の立場のあいだにある「境界線」が引かれる前から、わたしたちは、もうすでに共に生きているのです。多様な「一人ひとり」がいて、ただそこに境界線が引かれているだけなのではないか、と考えています。

たとえば、「障害者」と呼ばれる人たちのことを考えてみても、24時間365日「障害者」として生きているわけではありません。ある時には「女性」や「男性」として(もしくはそのほかの性のあり方を生きている人もいるかもしれません)、またある時には「○○出身の人」として、「○○歳の人」として、「血液型○の人」として、「○○という食べ物が好きな人」として…さまざまな境界線のなかに生きています。その境界線は、外から勝手に引かれてしまうものもあれば、自分で引くものもあるでしょう。

しかし、社会に目を向けると、多様な存在として生きていくことがむずかしかったり、困難を抱えて苦しんでいる人がいます。境界線は、人を守ることもありますが、人に何かの課題を突き付けたり、苦しめたりすることもあるようです。そしてときには、多数派であることを傘にして、暴力的とも言えるふるまいが起こってしまうこともあるかもしれません。

多様性と境界。この、ものすごく深遠なテーマを、実はすでにわたしたちは皆抱えながら生きています。そして、境界線を目の前にして、生きづらくなってしまう状況に接して、どのように生き抜くことができるのだろうか、とわたしたちはつい考えこんでしまいます。
しかし、境界線はずっと動かない壁のようなものでもありません。社会の状況や、価値観が変わってくると同時に、境界線もまた動き始めます(ここ数年の「LGBT」という言葉の急速な波及のように)。
そして、境界線を前にして生き抜いていくための技法を、実はさまざまな実践が教えてくれているのだ、ということがわかってきました。
あるときには福祉施設で、あるときには市民活動で、病院で、コミュニティスペースで…やむにやまれず、さまざまな方法を使いながら、なんとか生き抜いていく人たちに、私たちは出会ってきました。その技法のことをわたしたちは「迂回路」と呼んでいるのです。

境界線のあちら側とこちら側で起こっている日々の出来事や、そこにある独特の雰囲気、空気感や、そこにある表現や文化、空気感に目を向けること。そのことが、「あの」境界線だけでなく、「この」境界線ではどのようになっているのかを想像すること。そうやってそれぞれの同じところとちがうところとを想いながら、そのようなことは微塵も想像していない対岸はるかかなたの人々に、境界線のことをどのように伝えられるのか試行錯誤すること。
そのようなことを目指すのが、「対話」です。それぞれの実践に埋まっている「迂回路」を掘り起こし、異なる実践を出会わせることで何が起こるのでしょうか? そこに「対話」は可能なのでしょうか?

「対話は可能か?」というテーマは、少数派の人たちがこれからどう生きていくか、ではありません。もうすでに共に生きている、多様な人どうしでどう生き抜いていくのか、ということです。
異なる人々同士が出会い、「対話」することは可能なのか、そして、なにを可能にするのか。みなさんと一緒に考える時間にしたいと思っています。

次回からはプログラムの紹介をしたいと思います。

(長津結一郎)

★フォーラムへの集中連載
①「対話は可能か?」
②前夜祭『「幻聴妄想かるた」大会』
③プログラム1『トークセッション「共に生きるということ」』
④プログラム2『ライブ「Living Together × 東京迂回路研究」』
④プログラム3『ふわカフェ in 東京迂回路研究』