【週報】存在の仕方としての「声」

厳しい寒さが続いておりますが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。

さて、Facebookでもお知らせをさせていただきましたが、1月21日(土)の朝日新聞朝刊にて、昨年発行した「JOURNAL東京迂回路研究2」より、写真家・齋藤陽道さんのことばをご紹介いただきました。哲学者・鷲田清一さんにより連載中の「折々のことば」というコーナーです。

「ただ存在すること。そのこと自体がもうすでに声なんだ、ということを信じたいんです。」

このことばは、2015年9月4日~6日に開催したフォーラム「対話は可能か?」の最終日・6日に、齋藤さんと本研究所代表の長津との筆談対談「まるっきり違うのにそれでも似るもの:迂回路をめぐって」のなかで生まれたもの。

keio-48_6005

50名ほどの観客の前で、静寂の中、書画カメラに対談の様子が映されている。そんな環境で対談が続く中、齋藤さんが書かれたのは、次のような言葉でした。

「こうして対談をするということ(略)言葉が直に、届かないという思いは常にあり」、「言葉ではなくみつめあうことで、伝わるもの、それを声と呼びたい。(略)音声だけが『声』としてしまうと、それではあまりにもきゅうくつで。写真をとおして、他者のまなざしとぶつかりあうことで、言葉もなくこころになだれこんでくるものがあるなと知るようになり、『ただ見つめあうこと』『ただ存在すること』そのこと自体がもうすでに声なんだ、ということを信じたいんです。」

齋藤さんの写真をみていると、その被写体となる人・動物・ものが、ささやかな、しかし切実な「何か」を発していて、異なるものどうしの「何か」が一瞬だけ重なる瞬間が捉えられているように感じられることがあります。それはきっと、その「存在の仕方」のようなものであり、それによって他者に触れ、他者と重なる「何か」を、齋藤さんは「声」と呼んでいるのではないかと思います。

異なるものが、異なるままに、共に在ること。そのための「対話」の作法として、「言葉」を交わし合うだけでなく、「存在の仕方」としての「声」に耳を傾けるということの大切さを、改めて強く実感することになった時間でした。

「JOURNAL東京迂回路研究2」は、こちらから全文PDFでご覧いただけます。

また、今年度末に発行予定の「JOURNAL東京迂回路研究3」もただいま編集中で、今回も齋藤陽道さんの写真を巻頭に掲載する予定です。こちらもぜひ楽しみにお待ちください!

(石橋鼓太郎)

【週報】人は一人では生きていけない?

毎日寒い日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。
東京では雪は降っていませんが、雪の降る地のことを思って、空を見上げています。

さて、2月23日に、「もやもやフィールドワーク報告と対話編 第14回」を行います。
今年度最後の開催です。
テーマは、こちら。
——————————–
第1部 報告:アクションリサーチの試み―ハーモニ―との協働から(最終報告)
第2部 対話:哲学カフェ「人は一人では生きていけない?」
——————————–

MOYAMOYA_2016_NO14_fin

「人は一人では生きていけない?」。
これは、これまで「多様な人が多様なまま共にある」ありようを探求してきた「東京迂回路研究」の、根底にある問いです。今年度を振り返ると、あらためてこの問いに向き合った場面が、いくつもあったように思います。

たとえば、昨年、夏の関西出張で訪問した、「café ここいま」。
精神障害のある人が地域で暮らすための居場所や、地域住民との交流を育む場として運営されるカフェの店主、小川貞子さんによれば、精神障害のある人が退院した後のいちばんの課題は「孤独」だといいます。

たとえば、「子どもの貧困」に関する記事。
本研究所の理事を務めてくださっている坂倉杏介さんのFacebook記事によれば、それは経済問題ではなく、「解決すべきは関係性の貧困」なのだといいます。

そして、「もやもやフィールドワーク調査編」。
今年度を通して行ってきた就労継続支援B型事業所「ハーモニー」との協働にあたり、私たちが挙げた課題は、「困難を抱えた当事者の体験が、社会のなかで抑圧され、無化されてしまうことが多い」という状況でした。これに対し、私たちは、『他者との「体験の共有」の新たなあり方を、ワークショップ開発の過程と実施を通して探求する』研究によって、応えようと試みてきました。最終報告では、取り組みを通してかいま見えた、新たな「現実」を他者と共に作っていく可能性について、お話したいと思います。

人は、本当に「一人では生きていけない」のでしょうか。
だとしたら私たちは、「一人ではない」という実感を、いつ、どのようにして、持つことができるのでしょうか。

今年度の締めくくりにあたり、みなさまと共に、じっくり考えてみたいと思います。
ご参加、お待ちしています!

お申し込みは、こちらからどうぞ。
https://goo.gl/forms/vFyPwayG6GVj8GnC2

(三宅博子)

【週報】流れる水のようにー齋藤陽道さんとのやりとり

「流れる水のように、自由にレイアウトしてもらえたら」

「JOURNAL 東京迂回路研究 3」制作のためのやりとりのなかで、写真家・齋藤陽道さんから出てきた言葉です。

*「齋藤陽道 宝箱展 予告編 ワタリウム美術館」より

「東京迂回路研究」では、昨年から引き続き、年度末に発行するジャーナルの制作を続けています。
今号も、巻頭グラビアを齋藤さんに担当いただけることになり、先日、その作品データが届きました。
1号、2号とはまた異なる、けれども齋藤さんらしい、「光」を感じさせる作品。
そして、冒頭の、齋藤さんの言葉。

 

流れる水というのは、とても自然で力の抜けた状態でありながら、
もっとも力強さを感じさせるものでもあると思います。
相反する要素をもつもの。
それは実は、私たちの生活のなかにあふれています。
でも、そのことに気がつけなかったり、見えなかったりすることもあります。見ているようで見えていない光景。
齋藤さんの写真は、そんな光景をさっと切り取り、光のもとにそのもののありよう、その持つ力を露わにする、写真であるように感じます。

 

3号でも、そんな写真をご紹介できると思います。
どうぞお楽しみに!
*齋藤さんは、現在開催中の下記の展覧会に、出展されています。
お近くの方はぜひ足をお運びください!
——————–

神奈川県民ホールギャラリー「5Rooms - 感覚を開く5つの個展 

会期: 2016年12月19日(月)~2017年01月21日(土)
——————–
(井尻貴子)

【週報】『わかりあえない』から『観劇』する

あけましておめでとうございます。年末年始、いろいろな過ごされ方があったかと思いますが、ゆっくりできましたでしょうか。さて、去る2016年にダイバージョンでは、「わかりあえないこと」を出発点に様々な模索を行った年でもありましたので、「わかりあえないこと」を僕の個人的な立場である「会計」と「演劇」からも年末年始に少し考えてみました。

%e5%86%99%e7%9c%9f-2017-01-03-22-45-55
(年末年始お世話になっているみかんです。)

まず、会計は事実を数字で捉え、整理し、測定するおそらく世の中で最も広範に利用されている評価ツールです。その評価の前提は測定可能な事実であり、プライスレスな体験や共感は評価対象とはしません。会計に限らず、評価の前提には尺度があり、より多くの人と共有したければ尺度を単純にすればよいけれど、すると画一的な尺度には収まらないものごと、又は人がその認識対象から外れてしまいます。「わかりあえない」とは、お互いの間に共通の尺度が見当たらない、もしくは見つける気がない状態とも言い換えることができるかもしれません。

一方で、観劇体験というものは良くも悪くも腑に落ちないことが多い、つまり簡単に判断・評価できないことが多いです。他人がこうだ、と言っていても、それに対してそのままその通りだ、と言えることの方が少ないかもしれません。個人的な一意見として述べると、その評価の難しさに対する理由の一つには、演劇に接することの生々しさがあると思います。生々しいので、その接触には生理的反応がおこる。生理的反応に対して統一的な尺度を設定することが困難なように、演劇の評価軸を設定することは簡単ではないのだと個人的に思っています。そして、人と作品が不可分である演劇の性質がその生々しさの理由となっているように思います。同時に、その生々しさが演劇の魅力にもなり得ているのだとも思います。

演劇に対峙した際の生々しさに対する措置として、僕はその作家及びその作品に「どう個人的に接せられるか」を、生々しさを頼りに想像するという手段をとることがあります。第三者的に、客観的に考えるというよりは、ごく身近なものとして接してみます。そうすると、他の誰の意見も気にしなくてよいですし、生々しいので想像は比較的し易く、また楽しいのです。と、ここまで思い返してみて、会計もその数字の先にいる人にどう接することができるのかを考えるのが本筋であるはずだよなとも思い至ります。表層は数字の羅列でこそあれ、その裏には生々しさが実は同居しています。言えるのは、生々しさへの対峙にあたり会計は演劇よりもルール及び尺度がはっきりしており、極端に言うとわかりたければわかるし、わからないものはどうしたってわからないという点です。

「『わかりあえない』という言葉の裏には、(わかりあいたい、でも)というカッコ書きが前提にあると思う」と、もやもやフィールドワークでとある参加者がおっしゃっていました。
「わかりあえない」と認識をしたとき、つまり対峙したけれど共通の尺度が見当たらないとき、相手のふるまいや言動には、どんな面白いところ、素敵なところ、興味をひくところがあるかなと探すことは、案外、観劇時にその魅力を発見することと共通する点があるのかもしれません。

というわけで今後、コミュニケーション及び観劇でうまくいかないことがあったら、観劇を楽しむように人と接し、人と接するように観劇をしてみるのも手かもしれないなと思いました。

冗長かつ、直接は活動と関係のない内容で恐れ入りますが、今年もどうぞ、変わらずよろしくお願いいたします。

(五藤 真)

【週報】「ギフトサークル」ワークショップに思うこと

気づけば、12月も半ば。今年も残り僅かとなりましたね。

みなさま、いかがお過ごしでしょうか?

私は先日、前橋に行ってきました。

今年、群馬大学とアーツ前橋が連携し開催する、アートマネジメントについて学ぶ講座「まえばしアートスクール計画」の1コース:実践B「まちなかだれでも場づくりコース」のコーディネーターとして企画・運営を担当しています。

その一貫として12月9日、10日の2日間にわたり集中講座を前橋で開講していたのです。

今回は、そのなかで体験した「ギフトサークル」というワークショップについて、すこし書いてみたいと思います。

ファシリテーターは、元慶應義塾大学・京都造形芸術大学教授で、いまはOurs Lab.を共同主宰されている熊倉敬聡さんです。

「ギフトサークル」の内容はいたってシンプル。簡単にお伝えすると、下記のとおり。

1)参加者全員で輪になり、

2)NEEDS:いま、自分が必要としているもの・ことを、1つずつ言う。一周したら、こんどは

3)GIFTS:いま、自分が提供できるもの・ことを1つずつ言う。一周したら、

4)マッチング:自分が必要としているもの・ことを提供してくれそうな人、あるいはその逆の人が見つかったら、それぞれ話してみる。

GIVE&TAKEにならなくてOK。Aさんから提供してもらうだけ、Bさんに提供するだけ、Cさんに提供し、Dさんに提供してもらう、というのもOK。

というものでした。

5)最後に、感想を共有して終了。

*NEEDSとGIFTSは、ホワイトボードなどに書き留めておく。

DSC_0675

ところが、シンプルなのですが(あるいはシンプルゆえに)奥が深い。

ひとことでNEEDSとGIFTSといっても、それぞれが述べる具体的な内容は、バラエティに富んだものでした。

「車がほしい」「毎年、お米か蜜柑を送ってくれる人がほしい」というものから、「掃除をしてくれる人がほしい」「こんなときどうすればいいか、アイディアがほしい」というものまで。

「りんごお裾分けします」「漫画貸します」というものから、「料理つくります」「出張スナックします」というものまで。

初対面の方も多かったのですが、「その人が必要としているもの・こと」「その人が提供できるもの・こと」とそれにまつわる小さなエピソードから、その人自身がかいま見えるように思えます。

マッチングの時間には、そこここで、思いもよらなかった交換が生まれていく。

ボードにGIFTSを一覧にして書き留めていたことで、それらをつなげたら、こんな場ができる!と想像できる。

新しいことが生まれそうで、わくわくする。

場が活気に満ちていく、場の熱があがっていくのを実感しました。

感想共有の時間は、楽しかったという声が多数。

なかでも、自分が何かを提供できるというのが嬉しかった。

自分にとっては不要のものでも、捨てるのではなく、誰かに活用してもらえたら嬉しい。

といった、GIFTする喜びのようなことを述べた人が多かったのが印象的でした。

 

貨幣を介さない交換。そこから生まれるつながり。

自分たちそれぞれのできることが、新しいことを生み出していく可能性があるという希望。

それは、私たち自身を勇気付けるものなのかもしれない、と感じました。

 

熊倉さんには、ワークショップの前に1時間ほど、これまでの活動・実践についてお話を伺いまし


た。

さまざまな実践のきっかけとなった「weekend cafe」のこと、大学を地域・社会へと開く新しい学び場「三田の家」のこと、京都で立ち上げメンバーの一人として関わった変革の道場「Impact Hub Kyoto」のこと、そして比叡山の麓で仲間とともに展開中の「上高野くらしごと」のこと。

それぞれに試みたこと、できたこと、できなかったこと、いま試みていること。

cm161209-154357006-1

それらはすべて、自分の生きる場を自分でつくっていくという活動・実践のように思えました。

 

そのなかで、art of living という言葉が出てきました。

熊倉さんは、Ours Lab.のウェブサイトのなかで、下記のように記しています。

 

私たちが志すところは、生活と生業(なりわい)の融合です。そして、その融合のために私たちが行う創造的活動を(うまい日本語にならないので)Art of Livingと呼んでいます。 

 Ours Lab.は、そのArt of Livingの実験・実践場です。

 

東京迂回路研究という事業をすすめるなかで、ずっと私自身のテーマとしてあったのは、この art of living ということでした。

直訳すると、生の技法、生きるための技法、という感じでしょうか。

 

私たちは、生きていく。

その過程で、どうしようもない生きづらさ、生きにくさを感じることもあるだろう。

そのとき、自分で、その生きる道をつくりだす術をなんらかもっていないと、立ち行かなくなってしまうのではないか。

そんな危機感が、私自身のものとしてあります。

 

私たちひとりひとりが、他者と協働しながら、自分たちの生きる道、生きる場をつくりだすことができるという、技術や自信を持てれば、もっと希望を持てるのではないだろうか。

こうしたらよいんじゃないかという予感。これまでの枠組みをはずれていくことが新たな可能性をひらくという実感。

それがわずかでもあれば、また歩いていける道を、生きられる場を、つくるあるいはみつけることができるのではないか。

そのためには、ただなにかを一方的に消費、享受しつづけるような暮らしではなく、いろいろな交換が起こるような場をもっていく必要がある。

そうした場をつくっていくことができたらいいなと改めて思いました。

(井尻貴子)