【週報】場を記述するということ

こんにちは、研究所員の石橋です。
早いもので、もう師走ですね。
みなさま、いかがお過ごしでしょうか。

秋のイベントラッシュもひととおり終わり、現在、東京迂回路研究をはじめ自分が今年関わったさまざまな企画の報告記事や論考を執筆しているところです。こういった文章を執筆するときにいつも迷ってしまうのは、それをどういった視点で書くのか、ということです。

よく言われるように、その場で「起こったこと」とそれについて記述する人が「思ったこと」は、本来は不可分なものです。起こったことは、その人が思ったことを通してしか見つめることができません。しかしきっと、何かが起こったからこそ、その人は何かを思ったのでしょう。これ以上突っ込むと難しい議論になってしまいそうなので、このあたりに留めておきますが、ここで立ち止まってしまい、何をどう書けばいいのかが分からなくなってしまうこともしばしばあります。

最近は、こんな時には、以下のような二つの点を意識するようにしています。

ひとつは、これから書く文章が、どういう位置づけの何のための文章か、ということです。例えば、公に提出する報告書のようなフォーマットであれば、評価のための資料となるような情報を盛り込む必要があります。また、個人として依頼されたエッセイのような形であれば、自分がその場に参加した経験に重点を置いて書く必要があります。あるいは、論考という形であれば、緻密な論理の組み立てとそのオリジナリティが求められます。これから書く文章は、誰に向けられていて、どういう媒体のどういう位置づけで発表され、それを読んだ人がどのようになることが求められているのか。これらのことが、その文章を書くための言葉の選び方や構造などにも密接にかかわってきます。そして、このことについて考えることは、記述するための視点の据え方を考えるうえでの大きな手掛かりにもなるように感じています。

もうひとつは、これから記述する対象と自分との関係を明確にする、ということです。自分はその対象を企画した主催者なのか、それとも一参加者なのかによって、文章の書き方は大きく変わってきます。あるいは、自分は主催者でも参加者でもあり、その間での揺れ動きがその文章にとって重要な役割を果たすこともあるかもしれません。自分は誰で、自分はその対象にどのような立場で関わり、どのように切り取ったのか、ということを明示しておくことは、きっと場についてのどんな文章を書くうえでも必要なことなのではないでしょうか。

そうはいっても、私もまだまだ修行中で、なかなか一筋縄ではいかないのが現状です。
ところどころで立ち止まりながら、ゆっくり一歩一歩着実に執筆を進めていきたいと思っています。

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写真は、左が一昨年度の、右が一昨年度のジャーナルの目次です。
今年度のジャーナルも、さまざまな視点から、さまざまな形式の文章を掲載する予定です。
第3巻、お楽しみに!

(石橋鼓太郎)

【週報】ジャーナル執筆、はじまりました。

11月も半ば過ぎ。
今年も残すところ1ヶ月ほど。
ということで、多様性と境界に関する対話と表現の研究所では、毎年恒例、「東京迂回路研究」ジャーナルの執筆期間に突入しました。

ジャーナル執筆は、今年度取り組んできた事業を振り返り、そこでなされたことを丁寧にみながら、その意義を検証するという作業。
日頃の動きを「やりっぱなし」で終わらせないための大切な作業です。
が、これがやはり、なかなか大変。

「東京迂回路研究」の事業として、多様性と境界に関する対話と表現の研究所の活動して、重要視している「対話」という要素を感じられる冊子作りをするにはどうしたらよいか。頭を悩ませています。

論文という形式では、どうしても読み手を限定してしまうことを自覚しつつ、そうではないコンテンツも収録し、じっくりも、ぱらぱらも読める冊子に。
これまでイベントなどに参加されていない方でも、気軽に読んでいただける冊子に、したいなと考えています。

3月には、みなさまのお手元に届けられるかと思います。

お楽しみに!

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*こちらは、これまでに発行したJOURNAL迂回路研究1、2。
いずれも、こちらのウェブページから無料で、全ページダウンロードしていただけます(画面右側のバナーをクリックしてください)。

(井尻貴子)

【週報】研究のことばと実践のことば

こんにちは、研究所員の石橋鼓太郎です。

11月頭に、立て続けに2つの学会に参加してきました。一つは、以前週報でもご報告した、札幌市立大学で開催された「アートミーツケア学会」。もう一つは、岡山県の川崎医療福祉大学で開催された、「日本音楽即興学会」です。

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この二つの学会は共に、「研究」だけではなく、「実践」にも重きを置いています。たとえば、アートミーツケア学会では、車座形式で自由に出入りでき、ワークショップが実施できる分科会が設けられています。また、日本音楽即興学会では、音楽パフォーマンスを交えながら発表をすることができる「パフォーマンス発表」という枠が設けられています。

このような形式が設けられた背景としては、やはり、「研究のことば」と「実践のことば」との間の乖離があったのではないかと思います。私自身も、何度かそのような乖離を感じた経験があります。例えば、福祉の現場でワークショップをおこなっているアーティストの方が、「研究者が自分の実践を論文にしても、それが自分の現場にフィードバックできると思ったことは一度もない」と語られているのを聞いたことがあります。また、最近さまざまな角度から批判がなされている「地域アート」ですが、現場の方々は「実際はそうじゃない、もっと豊かなことが起こっている!」と言いつつ、その叫びが批評家・研究者に届くことはなかなかないように感じています。

研究者は、学問的な背景を持ったことばを使います。一方で、実践者は、その現場の身体感覚に即したことばを使います。その間の境界は、一見くっきりとしているように見えますが、果たして、そこまで自明なものなのでしょうか。研究者は、理念的な世界にのみ生きているわけではなく、ある現場を調査・研究するに際して、何らかの形でその場に「参与」せざるをえません。一方、実践者も、実践の世界のみに生きているのではなく、意識的にせよ無意識的にせよ、その現場に独特の複雑な「論理」を練り上げながら実践をおこなっているはずです。

「研究のことば」と「実践のことば」が健全な形で互いに影響を与え合うためには、研究者と実践者が互いの立場やことばを不動のものとして共訳不可能なままぶつけ合うのではなく、その間にある境界が常に流動的であることを自覚したうえで、研究者の実践的な部分、そして実践者の研究的な部分に互いに敏感になりながら、ことばを交換させていく必要があるのではないでしょうか。

このような研究者と実践者の間の境界の曖昧さを突き詰めていくと、誰がどの立場だかわからなくなり、誰もが研究者で、同時に誰もが実践者であるような協働のモデルが見えてきます。今年度の東京迂回路研究は、このような協働のあり方を目指しています。ハーモニーのみなさんと一緒に調査を進めるにあたって導入した「アクションリサーチ」という研究手法も、そのためのものです。11/24(木)に実施する「もやもやフィールドワーク 報告と対話編 第13回」では、このような曖昧な立場・関わり方から生まれてくるものについて、現状で考えられることをまとめ、報告をさせていただく予定です。ぜひご期待ください!

(石橋鼓太郎)

【週報】「遊び」って何だろう―音楽即興学会に参加して

朝晩冷えこんできましたね。
事務局では、オープンラボを終えてほっとしつつ、イベントの記録や振り返りをして、年度末のジャーナルに備える日々です。

11月24日(木)には、「もやもやフィールドワーク 報告と対話編 第13回」を開催予定です。今回は、「遊び」をテーマに報告と対話を行います。前半は、「アクションリサーチの試み――ハーモニ―との協働から(中間報告・その2)」と題して、ハーモニ―のみなさんをはじめとする協働チームで半年間かけて取り組んできた「幻聴妄想かるた」を使った新しい遊びの開発過程から、どのような「遊び」が出来たのか、それにはどんな意味があったのかを中心に報告します。後半は、この取り組みの報告をもとに、「遊び」が生み出すものについて、みんなで考えてみたいと思います。

「遊び」といえば、先日参加した第8回日本音楽即興学会大会で、とても印象に残ることがありました。今日は、そのことについて少し書いてみます。

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今回のゲストは、即興演奏家・著述家のスティーブン・ナハマノヴィッチさん。彼の著書『フリープレイ —人生と芸術におけるインプロヴィゼーション』(若尾裕訳)は、即興とは何かについて、芸術に先立つ「生きること」そのものにその源泉を見出し、グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学』を始めとする古今の哲学や詩を背景に、日常における創造性と表現行為とのつながりに輪郭を与えようとする書です。

ナハマノヴィッチさんの講演は、形がいびつで、表面がでこぼこし、色のまだらな壺の写真スライドから始まりました。「この壺についてどう思いますか?」。そして彼は、「完全を求めるのではなく、この、いびつで不完全なのがよいのです。即興もそのようなものです」。「不完全なものには、その“不完全さ”による制約があります。しかし、だからこそ得られる自由がある。その制約を楽しむことが大切です」というようなことを言われました。これらは、「遊び」とは何かを考える上で、とても重要な言葉のような気がしました。

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(写真は、会場の川崎医療福祉大学の隣にある、川崎医科大学付属病院「ふるさとの森」にて撮影)

続いて、ナハマノヴィッチさんがファシリテートしての即興ワークショップ。“即興”と聴いて「難しそう」と思われる方もいるかもしれません。しかし、このワークショップは、即興演奏の技術を競い合うようなものではなく、誰もが日常で行っているようなこと、たとえば、呼吸、声、歩くこと、そして「そこにいる」という存在そのもの (being) を中心に進んでいきます。ごく簡単な枠組み―たとえば「4人の人が輪になって、1分間で、声や身体を使って即興を行う」―だけを与えられ、おもむろに始まる即興。そこでは、「え、もう始まっているの?」といった戸惑いもパフォーマンスとなり、他のメンバーをきょろきょろ窺う目線が相手に伝播し、誰かが身をよじる動きからいつしか互いに声を出し合って…といった具合に、次々と出来事が起こります。

メンバーやルールを変えながらいくつかの即興をしたところで、ナハマノヴィッチさんは、周囲で見ていた参加者に、こんなことを言いました。「外で輪を作っているみなさんは、単なる観客ではありません。みなさんは、輪の中心で演じる4人をサポートしているのです。演者/観客という境界線、分断を、私たちは即興という営みによってつなごうとしています。そのような気持ちで、ここにいて(存在して)ください」。すると、その後の即興セッションでは、なにか空気が変わったのが感じられました。演者の一人が観ている人を巻き込みはじめ、観ていた人のなかから自分のタイミングで演奏に加わる人もあらわれ、ひとつの「場」が生み出されたように思われました。

その直後、とても印象的な場面がやってきました。50人ほどの参加者全員が手をつないだ状態で、そろそろワークショップも終わりかと思った矢先、ナハマノヴィッチさんが、手をつないだまま、おもむろに会場を歩き始めたのです。椅子が並んだ階段状の大講義室の隙間を縫うように、何をするでもなく手をつないで歩き、声を出す私たち。アメーバのように輪がちぎれたり、またつながったりしながらゆっくりと歩き続け、ゆるやかにつないだ手を上に掲げたところで、終わりが訪れました。

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…あれは何だったのだろう? と、帰ってきてからも考えています。誰も、役割として自分の「演奏」や「表現」をしたわけではなく、ただ手をつないで歩くという、ある意味制限された行為をしていただけ。にもかかわらず、大人が手をつないで、縦横無尽に部屋を歩きまわるという、通常大学の講義室では絶対にしないような状況が起こっていました。そして、私は、この行為をしているとき、たしかに「音楽」をしている、あるいは、この場が「音楽」であるという実感を持ちました。

ワークショップ後の質疑応答で、「即興のゴールとは何ですか?」という問いに、ナハマノヴィッチさんは「すること(doing)」と答えられました。協働で、何かをすること。その行為は、「遊び」ということに大いに関係があるような気がしています。

11月24日の「もやもやフィールドワーク 報告と対話編 第13回」では、そんな話もできればいいなあと思っています。お申し込みは、こちらから。よかったらぜひ、お越しくださいね!

(三宅博子)

【週報】閉じながら開かれていく場の"緩さ"

こんにちは、研究所員の石橋鼓太郎です。

大学のゼミの一環で、「アートアクセスあだち 音まち千住の縁」というアートプロジェクトに、5年ほど関わり続けています。10/22(日)に、担当している企画「野村誠 千住だじゃれ音楽祭」の一環で、「第1回 だじゃれ音楽研究会」が実施されました。

「だじゃれ音楽」とは、だじゃれと音楽が結びついた新たな音楽の形。公募により集まった「だじゃれ音楽研究会」(通称「だじゃ研」)のメンバーのみなさんと一緒に活動しています。何らかの形でだじゃれと音楽が結びついていればいいので、だじゃれが得意でなくても、音楽が得意でなくても、自分が得意なことを何でも生かして活動することができます。

今回の企画は、だじゃ研の新たなメンバーを募集する目的で行われたもので、だじゃ研のメンバーが初めてその企画構成までを担いました。「研究大会」ということで、学会大会の形式をもじって、基調講演、分科会、シンポジウムなどを実施。それに交えて、コンサートや観客を交えた大合奏などもおこないました。分科会では、だじゃれ音楽の研究成果や、各だじゃ研メンバーが得意なことをもとに、3会場に分かれてワークショップを実施しました。その進行は、だじゃ研メンバーにお任せでした。また、基調講演やシンポジウムなども、テーマだけが決まっていて、その内容はほとんどその場の即興でした。

普通なら企画を実施するうえでは排除すべしとされる”緩さ”こそが、この企画の肝でした。緩いからといって、企画が崩壊してしまうことはなく、その”緩さ”がその場全体で共有される空気となり、お客さんも最初は当惑しつつも、徐々にそれを楽しみつつあるように感じられました。

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ある活動が長年続いていると、それは「内輪」になっていきがちです。しかし、それは必ずしもその活動を外へ開いていくこととは矛盾しないのではないでしょうか。だじゃ研のメンバーが長年の活動で「内輪」になって築き上げてきた空気こそが、活動を外へ開いていくために必要な”緩さ”となったことを実感できるような時間でした。

もやもやフィールドワーク調査編で、さまざまな団体・施設をうかがうとき、その場の環境や人々がつくりだす濃厚な空気に心地よさを感じ、同時にぐったりとしてしまうことがあります。それを私たちは銭湯の”湯あたり”に即して”場あたり”と呼んでいます。そして、”場あたり”してしまうような場をつくっている活動は、不思議と、そのコミュニティを外へ開いていくことを志向しているものが多いように感じています。

きっと、長年の活動で参加者の体に染みついた相互行為の絶妙な機微が、”場あたり”してしまうような濃厚な空気を醸し出し、そのことこそが、外の人々を自然と受け入れてしまうような”緩さ”につながっていくのではないでしょうか。そして、そのような場を注意深く観察し、言葉にし、また実践につなげていくことは、とても必要とされていることなのではないかと思っています。

ちなみに、この企画の70名ほどの参加者のうち、「だじゃ研」に新たに7名の人々が加わりました。よかった!

(石橋鼓太郎)